Pages

Monday, July 13, 2015

Slavish Obedience to the U.S.


== 国務省による声明 ==
[[2006]]7月、[[アメリカ合衆国国務省]][[中央情報局]]CIA)と日本政界との間の秘密の関係を認める声明を発した。これにより、従来から囁かれていた[[自民党]]及び[[民社党]]への工作が事実であった事が判明した<ref>孫崎享、『戦後史の正体 1945-2012』「戦後再発見」双書1)、創元社、P.1802012年。</ref>。ティム・ワイナーは、自著『CIA秘録』で、CIAによる他国の未来の元首となる政治家(岸信介)の買収工作をコールドキャッシュ(Cold Cash)と呼び、CIAの傑出した外国政府の買収工作の実態を指摘している<ref>Tim Weiner title = Legacy of Ashes:The History of the CIA, Anchor Books, 2007,2008 PP.133-140.</ref>
{{quotation|アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与えようとする四件の秘密計画を承認した。左翼政治勢力による選挙を通じての成功が、日本の中立主義を強化し最終的には日本に左翼政権が誕生することを懸念したのである。アイゼンハワー政権は19585月の衆院議員選挙の前に、少数の重要な親米保守政治家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。援助を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた。……<br>
……重要政治家に対する控え目な資金援助計画は、その後1960年代の選挙でも継続された。……<br>
……もう一つのアメリカによる秘密工作は、極端に左翼的な政治家が……<br>
……選挙で選ばれる可能性を減らすことを狙ったものだった。1959年にアイゼンハワー政権は、より親米的な『責任ある』野党が出現することを希望して、穏健派の左翼勢力を野党勢力から切り離すことを目指した。秘密工作の実施をCIAに承認した。この計画での資金援助は限られていて―1960年には七万五千ドル―、1960年代初期を通じて基本的に同じ水準で続けられた。……<br>
……一方、日本社会の重要な要素に働きかけて極左の影響を拒絶させることを目指す、宣伝と社会行動にほぼ等分されたより広範な秘密計画は、ジョンソン政権の全期を通して継続された。これには控えめな水準の資金―たとえば1964年には四十五万ドル―が提供された。……}}<ref>Tim Weiner title = Legacy of Ashes:The History of the CIA, Anchor Books, 2007,2008 PP.133-140.</ref>

歴史的には、1952年以降日本に於ける民衆の在日米軍への抗議反抗はベトナム戦争終結以降まで広範に繰り広げられていた。そこで米国は単一政党支配を維持すべく1949(自民党結党前)から1993年まで長期にわたり、CIAの与党[[自民党]]への財政支援が継続された。これは、長期安定した衛星国統治の為の[[対米従属]]政権としては同様にソ連の長期傀儡政権であった[[東ドイツ]]と並んで記録的であるとされている<ref>Chalmers Johnson title = Blowback, Second Edition: The Costs and Consequences of American Empire, Owl Books, 2000, p.96.</ref>

=== 対米協力者の養成 ===
更に、[[2008]]に発行された、ティム・ワイナー[[ニューヨーク・タイムズ]]記者の『CIA秘録』(原題:Legacy of Ashes)で、第二次世界大戦後の日本をアメリカ合衆国の友好国・同盟国にし維持するために、CIAが日本の政財界の大物に協力させ、引き換えに活動資金を提供していたことが、機密指定を解除されて公開されたCIAの資料や、元CIA職員への聞き取り調査で明らかになった<ref name="weiner">ティム・ワイナー『CIA秘録』(上下)、[[文藝春秋]]</ref>CIAが資金提供した協力者の中には、[[岸信介]](時の首相 [[満州国]]で官僚も務めたA級戦犯だったがアメリカの対日政策転換、いわゆる「[[逆コース]]」により罪を不問に付された<ref>{{cite book|author=栗原優|title=現代世界の戦争と平和|year=2007|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|page=275}}</ref>)、[[正力松太郎]][[読売新聞社]]元社主)、[[児玉誉士夫]](実業家で大物[[右翼]])などの社会的影響力がある人物が含まれていた。また[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成される一助になっていたことも確認されている。さらに、アメリカの歴史学者[[マイケル・シャラー]]1997年に出版した日米関係研究書『「日米関係」とは何だったのか―占領期から冷戦終結後まで』(原題:Altered States: The United States and Japan Since the Occupation)で、後に岸信介が対米自立の傾向を強めると、CIAは当初[[吉田茂]]に岸を交代させようと策動し、結果1960620日のマッカーサー駐日大使と吉田茂の面会で両者は[[池田勇人]]を岸の後継として選定した事が、翌日の池田のマッカーサーへの返答で判明している<ref name="Michael Schaller">マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか―占領期から冷戦終結後まで』、[[草思社]]</ref>
[[CIA]]は、米国の諜報工作の中心であり、CIAの活動手段は、軍や官憲当局者を自分たちの手で育て、権力につかせ、始末したい人間が出てくるとその名を連中に知らせるというパタンである。また60年代以降の最盛時には、CIAは日本国内に100人以上という在外支局としては世界最大規模の要員を配属し、[[自民党]][[日本社会党|社会党]]議員、政府省庁職員、朝鮮総連幹部、左翼過激派、商社員や政府民間、与野党、在日、右翼や左翼勢力に到るまで広範に定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者としてきたことも発覚している<ref>フランク・ドリル『テロリストは誰?』、ハーモニクス出版、2004年、P.74</ref>。その元長官ウィリアム・E・コルビーは1978年発表の著書『栄光の男たち コルビー元CIA長官回顧録』で以下の如く対米従属化の為の諜報工作に関してこう証言している<ref name="ウィリアム・E・コルビー">ウィリアム・E.コルビー『栄光の男たち コルビー元CIA長官回顧録』、政治広報センター、1980年参照。</ref><ref>孫崎享、『戦後史の正体 1945-2012』「戦後再発見」双書1)、創元社、P.132012年。</ref>
{{quotation|これらの活動で根本的に重要なことは秘密保持である。米国政府が支援しているとの証拠がでては絶対にいけない。そのため、金にせよ、……<br>
……単なるアドバイスにせよ、援助はCIAとなんの関係もなく、米国大使館とも関係のない第三者を通じて渡された<ref>ウィリアム・E.コルビー『栄光の男たち コルビー元CIA長官回顧録』、政治広報センター、1980年参照。</ref><ref>孫崎享、『戦後史の正体 1945-2012』「戦後再発見」双書1)、創元社、P.132012年。</ref>|ウィリアム・E・コルビー『栄光の男たち コルビー元CIA長官回顧録』}}

さらに著名な事例の一つとしては、[[レーガン政権]]は、通称[[イラン・コントラ事件]]で、1984年のボーランド修正法で禁止された[[ニカラグア]]政府転覆の為のCIA秘密作戦への税金使用を違法にも無視し、1986年同法が失効するまでイランへの武器売却による数百万ドルを、活動資金として巧妙に仲介人を通して、元ソモサ政権の敗残兵達をホンジュラスにあるCIA基地で訓練し、ニカラグアへ送り込んだ非土着の従米反政府テロ組織であり、1980年代に何千人ものニカラグア農民を虐殺した[[コントラ]]に渡していた<ref>フランク・ドリル『テロリストは誰?』、ハーモニクス出版、2004年、P.25</ref>[[File:Frente Sur Contras 1987.jpg|thumb|国際的な従米反政府テロ組織[[コントラ]]]]
さらに、1989年の米国の[[パナマ侵攻]]では、米海兵隊26千人が深夜にパナマを奇襲し、数千人の被害者を出したが、この目的である[[マヌエル・ノリエガ]]は、CIAの支援を受けた米国の傀儡だった。1960年代以来彼は、CIAから給料を受け取り、[[ジョージ・HW・ブッシュ]]1976年にCIA長官になった際、フォード大統領時代からのCIA工作員である[[マヌエル・ノリエガ]]を引き継いだ。[[ジョージ・HW・ブッシュ]]は、麻薬取引の証拠のある[[マヌエル・ノリエガ]]の年俸を10万ドル以上引き上げ、パナマ報告から麻薬取引に関する要件を削除した。後に彼は1983CIAの協力でパナマ軍総司令官になった。それから彼は、イスラエルとCIAの武器商人、軍産複合体と組んで兵器供給ネットワークを構築し、コスタリカ北部の[[コントラ]]に供給した。しかし、岸信介やオマル・トリホスやスハルトなど他のCIA工作員となった傀儡政権が対米自立へと変節した事例のように、[[マヌエル・ノリエガ]]も中米での米国の軍事行動に非協力的になっていった。1984年には彼は、コンタドラ平和会議で中米諸国の首脳を招いて中米への米国の軍事介入終結を呼びかけた。これが、レーガン政権を憤激させ侵攻へと繋がったのである<ref>フランク・ドリル『テロリストは誰?』、ハーモニクス出版、2004年、PP.51-53</ref>[[File:Panama clashes 1989.JPEG|thumb|他国の国家元首の逮捕という国際法規違反のパナマ侵攻の様子]]

対米協力者の養成機関としては、先述の1946年に米国によりパナマで開校されたアメリカ陸軍米州学校(U.S.ARMY School Of Americas; SOA)が有名であり、1984年に米国内のジョージア州フォートベニング陸軍基地に移転し、2001年の改名後は現在の[[西半球安全保障協力研究所]]に該当する。ここだけではなく他にもパナマ米軍基地やコスタリカ米軍基地などCIAの海外協力者の養成機関があり、反対米従属派への拷問技術はCIAの開発指導によることが以下の1998年の[[ニューヨーク・タイムズ]]による[[ホンジュラス]]での米国関与の拷問と暗殺の調査結果に関する証言から分かる。
{{quotation|ホンジュラスの悪名高い残虐な3-16部隊の取調官フロレンス・カバレロは、[[ニューヨーク・タイムズ]]にこう言った。彼と24人の彼の同僚はテキサスへ連れていかれCIAに訓練された。『彼らは我々に囚人の恐怖と弱点を知る為の心理的方法を教えた。彼を起き上がらせ、彼を眠らせず、彼を裸にしたまま孤立させ、ねずみやゴキブリを彼の独房に置き、悪い食物を彼に与え、動物の死骸を彼に給仕し、冷水を彼に浴びせ、温度を変える。』ここには、彼が言及できていないもう一つの技術があった。それは電気ショックである。|3-16部隊の取調官フロレンス・カバレロ<ref>Naomi Klein title =The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism, Picador, New York, 2007, P.46.</ref>}}

なおCIAによる対米協力者の養成政策の歴史的傾向としては、[[ナオミ・クライン]]70年代以降アメリカの工作員によって好まれたのは彼ら自身が直接の現地での実行者になるのではなく、あくまで海外の現地対米協力者の助言者や訓練者になることであると指摘している<ref>Naomi Klein title =The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism, Picador, New York, 2007, P.50.</ref>。例えば、スハルト政権の経済学者達を養成したインドネシアのフォード基金([[:en:Ford Foundation]])が著名である。
{{quotation|1974年のインドネシアで国家主義者らが自国の経済に対する外国による秘密破壊工作への反乱を起こした。フォード基金は民衆の憤慨の対象となった。その基金は、多くが指摘するように、スハルトの経済学者らを養成しインドネシアのオイルや天然資源を西洋の多国籍企業に売り渡したからである。|[[ナオミ・クライン]]<ref>Naomi Klein title =The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism, Picador, New York, 2007, P.152.</ref>}}

No comments:

Post a Comment