国務省による声明[編集]
2006年7月、アメリカ合衆国国務省は中央情報局(CIA)と日本政界との間の秘密の関係を認める声明を発した。これにより、従来から囁かれていた自民党及び民社党への工作が事実であった事が判明した[205]。ティム・ワイナーは、自著『CIA秘録』で、CIAによる他国の未来の元首となる政治家(岸信介)の買収工作をコールドキャッシュ(Cold Cash)と呼び、CIAの傑出した外国政府の買収工作の実態を指摘している[206]。
アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与えようとする四件の秘密計画を承認した。左翼政治勢力による選挙を通じての成功が、日本の中立主義を強化し最終的には日本に左翼政権が誕生することを懸念したのである。アイゼンハワー政権は1958年5月の衆院議員選挙の前に、少数の重要な親米保守政治家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。援助を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた。……
……重要政治家に対する控え目な資金援助計画は、その後1960年代の選挙でも継続された。……
……もう一つのアメリカによる秘密工作は、極端に左翼的な政治家が……
……選挙で選ばれる可能性を減らすことを狙ったものだった。1959年にアイゼンハワー政権は、より親米的な『責任ある』野党が出現することを希望して、穏健派の左翼勢力を野党勢力から切り離すことを目指した。秘密工作の実施をCIAに承認した。この計画での資金援助は限られていて―1960年には七万五千ドル―、1960年代初期を通じて基本的に同じ水準で続けられた。……
……一方、日本社会の重要な要素に働きかけて極左の影響を拒絶させることを目指す、宣伝と社会行動にほぼ等分されたより広範な秘密計画は、ジョンソン政権の全期を通して継続された。これには控えめな水準の資金―たとえば1964年には四十五万ドル―が提供された。……
歴史的には、1952年以降日本に於ける民衆の在日米軍への抗議反抗はベトナム戦争終結以降まで広範に繰り広げられていた。そこで米国は単一政党支配を維持すべく1949年(自民党結党前)から1993年まで長期にわたり、CIAの与党自民党への財政支援が継続された。これは、長期安定した衛星国統治の為の対米従属政権としては同様にソ連の長期傀儡政権であった東ドイツと並んで記録的であるとされている[208]。
対米協力者の養成[編集]
更に、2008年に発行された、ティム・ワイナーニューヨーク・タイムズ記者の『CIA秘録』(原題:Legacy of Ashes)で、第二次世界大戦後の日本をアメリカ合衆国の友好国・同盟国にし維持するために、CIAが日本の政財界の大物に協力させ、引き換えに活動資金を提供していたことが、機密指定を解除されて公開されたCIAの資料や、元CIA職員への聞き取り調査で明らかになった[209]。CIAが資金提供した協力者の中には、岸信介(時の首相 満州国で官僚も務めたA級戦犯だったがアメリカの対日政策転換、いわゆる「逆コース」により罪を不問に付された[210])、正力松太郎(読売新聞社元社主)、児玉誉士夫(実業家で大物右翼)などの社会的影響力がある人物が含まれていた。また自由民主党が結成される一助になっていたことも確認されている。さらに、アメリカの歴史学者マイケル・シャラーが1997年に出版した日米関係研究書『「日米関係」とは何だったのか―占領期から冷戦終結後まで』(原題:Altered States: The United States and Japan Since the Occupation)で、後に岸信介が対米自立の傾向を強めると、CIAは当初吉田茂に岸を交代させようと策動し、結果1960年6月20日のマッカーサー駐日大使と吉田茂の面会で両者は池田勇人を岸の後継として選定した事が、翌日の池田のマッカーサーへの返答で判明している[211]。 CIAは、米国の諜報工作の中心であり、CIAの活動手段は、軍や官憲当局者を自分たちの手で育て、権力につかせ、始末したい人間が出てくるとその名を連中に知らせるというパタ−ンである。また60年代以降の最盛時には、CIAは日本国内に100人以上という在外支局としては世界最大規模の要員を配属し、自民党や社会党議員、政府省庁職員、朝鮮総連幹部、左翼過激派、商社員や政府民間、与野党、在日、右翼や左翼勢力に到るまで広範に定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者としてきたことも発覚している[212]。その元長官ウィリアム・E・コルビーは1978年発表の著書『栄光の男たち コルビー元CIA長官回顧録』で以下の如く対米従属化の為の諜報工作に関してこう証言している[213][214]。
— ウィリアム・E・コルビー『栄光の男たち コルビー元CIA長官回顧録』
さらに著名な事例の一つとしては、レーガン政権は、通称イラン・コントラ事件で、1984年のボーランド修正法で禁止されたニカラグア政府転覆の為のCIA秘密作戦への税金使用を違法にも無視し、1986年同法が失効するまでイランへの武器売却による数百万ドルを、活動資金として巧妙に仲介人を通して、元ソモサ政権の敗残兵達をホンジュラスにあるCIA基地で訓練し、ニカラグアへ送り込んだ非土着の従米反政府テロ組織であり、1980年代に何千人ものニカラグア農民を虐殺したコントラに渡していた[217]。
さらに、1989年の米国のパナマ侵攻では、米海兵隊2万6千人が深夜にパナマを奇襲し、数千人の被害者を出したが、この目的であるマヌエル・ノリエガは、CIAの支援を受けた米国の傀儡だった。1960年代以来彼は、CIAから給料を受け取り、ジョージ・H・W・ブッシュは1976年にCIA長官になった際、フォード大統領時代からのCIA工作員であるマヌエル・ノリエガを引き継いだ。ジョージ・H・W・ブッシュは、麻薬取引の証拠のあるマヌエル・ノリエガの年俸を10万ドル以上引き上げ、パナマ報告から麻薬取引に関する要件を削除した。後に彼は1983年CIAの協力でパナマ軍総司令官になった。それから彼は、イスラエルとCIAの武器商人、軍産複合体と組んで兵器供給ネットワークを構築し、コスタリカ北部のコントラに供給した。しかし、岸信介やオマル・トリホスやスハルトなど他のCIA工作員となった傀儡政権が対米自立へと変節した事例のように、マヌエル・ノリエガも中米での米国の軍事行動に非協力的になっていった。1984年には彼は、コンタドラ平和会議で中米諸国の首脳を招いて中米への米国の軍事介入終結を呼びかけた。これが、レーガン政権を憤激させ侵攻へと繋がったのである[218]。
対米協力者の養成機関としては、先述の1946年に米国によりパナマで開校されたアメリカ陸軍米州学校(U.S.ARMY School Of Americas; SOA)が有名であり、1984年に米国内のジョージア州フォートベニング陸軍基地に移転し、2001年の改名後は現在の西半球安全保障協力研究所に該当する。ここだけではなく他にもパナマ米軍基地やコスタリカ米軍基地などCIAの海外協力者の養成機関があり、反対米従属派への拷問技術はCIAの開発指導によることが以下の1998年のニューヨーク・タイムズによるホンジュラスでの米国関与の拷問と暗殺の調査結果に関する証言から分かる。
ホンジュラスの悪名高い残虐な3-16部隊の取調官フロレンス・カバレロは、ニューヨーク・タイムズにこう言った。彼と24人の彼の同僚はテキサスへ連れていかれCIAに訓練された。『彼らは我々に囚人の恐怖と弱点を知る為の心理的方法を教えた。彼を起き上がらせ、彼を眠らせず、彼を裸にしたまま孤立させ、ねずみやゴキブリを彼の独房に置き、悪い食物を彼に与え、動物の死骸を彼に給仕し、冷水を彼に浴びせ、温度を変える。』ここには、彼が言及できていないもう一つの技術があった。それは電気ショックである。— 3-16部隊の取調官フロレンス・カバレロ[219]
なおCIAによる対米協力者の養成政策の歴史的傾向としては、ナオミ・クラインは70年代以降アメリカの工作員によって好まれたのは彼ら自身が直接の現地での実行者になるのではなく、あくまで海外の現地対米協力者の助言者や訓練者になることであると指摘している[220]。例えば、スハルト政権の経済学者達を養成したインドネシアのフォード基金(en:Ford Foundation)が著名である。
1974年のインドネシアで国家主義者らが自国の経済に対する外国による秘密破壊工作への反乱を起こした。フォード基金は民衆の憤慨の対象となった。その基金は、多くが指摘するように、スハルトの経済学者らを養成しインドネシアのオイルや天然資源を西洋の多国籍企業に売り渡したからである。
外交[編集]
日本は第二次世界大戦終結後に外交政策の根本的転換を行い、第二次世界大戦以前の覇権主義・帝国主義・侵略戦争・軍事介入政策を破棄し、諸外国との相互理解・友好・共生・共栄関係の形成を遂行してきた。それに対しアメリカ合衆国は一貫して覇権主義・帝国主義的で、主として中南米、東アジア、西アジアで侵略戦争や軍事介入や諜報活動や傀儡政権支援などを活発に繰りひろげてきた。特に2003年のイラク戦争では、開戦第一の理由であったイラクの大量破壊兵器は一切見つからず、完全な誤りであったことをジョージ・W・ブッシュ大統領自身が認めた。孫崎享は著書『戦後史の正体 1945-2012』において戦後日本の内政及び外交の本質を分析総括して戦後日本外交は、米国に対する「追随」路線と「自主」路線の戦いと指摘している[222]。また日本の外務省に対しては、孫崎享は、その外交姿勢における対米従属を批判している[223]。
孫崎:外務省には、『如何にしてアメリカに取り入るか』ということしか頭にないんです。
2013年11月2日のニューヨーク・タイムズで同盟国たる日本をも経済、外交、技術革新の三分野で盗聴していることがスノーデンの公開文書で発覚したアメリカ国家安全保障局では、具体的に米国の外交的優越性を保持する為のスパイ工作の任務であるK.任務で、中国やロシアと並んで同盟国であるはずの日本もそのスパイ工作対象国のリストに挙げられていることがこれで証明された[225]。
(S//SI) K.任務:外交(諸国家及び複数国の機関を含む): 米国の外交的優越性の保持。対象地域:米国の国家安全の利益に影響を著しく与える国家機関及び多国籍機関の地位、目的、プログラム、そして行動:中国、ロシア、フランス、ドイツ、日本、イラン、イスラエル、サウジアラビア、北朝鮮、アフガニスタン、イラク、国連、ベネズエラ、シリア、トルコ、メキシコ、韓国、インド、そしてパキスタン。受容可能なリスク:台湾— アメリカ国家安全保障局『文書のみせる米国の敵国及び同盟国をスパイするN.S.A.の努力』より[226]
また外交問題における対米従属批判の立場から、政治経済学者の植草一秀は対米関係に対して反米ではなく、米国内の多様な見解との間で外交的発展を計ることが必要だと指摘する[227]。
米国という一つの考えがあるわけではなく、米国の中にも、日本と同じように多様な意見がありますからね。すぐに嫌米とか反米とか、対米自立とかいう話になりますが、米国の中でも良質な意見を述べる人達とうまく結びついて、外交を展開する必要があります。
対リビア政策[編集]
日本は1957年にリビアと国交を樹立して以後は政府も民間もリビアと友好関係を継続してきた。 1969年9月1日、ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)と同志の青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、カダフィを事実上の元首とする直接民主制の共和国が成立した。同国はカダフィが著した『緑の書』に基づく独自の社会主義国家を建設を目指し、対外的にはソビエト連邦に援助を受け、国民の5分の1を公務員としカッザーファ族同族による独裁的支配を実施したが、それ以前の王政による腐敗した権力を打倒し、石油産業を国有化し経済を発展させ、その利益を国民に還元し、教育や女性解放運動に注力し、リビアをアフリカでも豊かな国の一つにし、部族間対立を押さえ40年以上も統治してきた。しかしアメリカ合衆国の1986年のリビア爆撃以後、リビアはその報復として1988年にパンナム機を爆破(パンアメリカン航空103便爆破事件)した。そして米国はリビアに対して外交関係を停止し、経済制裁を実施してきたが、リビア政府が旅客機爆破事件の被疑者の身柄の引渡しと賠償金の支払いを表明し、大量破壊兵器の破棄を表明したので、2004年に経済制裁を解除し、2006年にテロ支援子国家の指定を解除し外交関係を復活した[229]。米国が反テロ戦争のレトリックの下で惨事便乗型資本主義を実施したアフガン戦争とイラク戦争についでNATO(北大西洋条約機構)を利用して軍事介入した2011年リビア内戦では、米国の支持するリビア国民評議会とアフリカ連合の脱ドル支配体制を目指したカダフィ政権側との戦争となった。同年8月23日にはリビア国民評議会軍が首都トリポリを陥落し、同10月20日にはカダフィがスルト(シルト)で射殺され、42年間続いたカダフィ政権は崩壊した。2012年7月7日には、同国の60年ぶりに行われた国民全体会議選挙(定数200)で、120議席が無所属に、80議席が政党に配分された。国民勢力連合が39議席、ムスリム同胞団系の公正建設党が17議席、残りの議席は各中小政党が獲得する形となった。国民評議会は同年8月8日に権限を全体国民会議に移譲し解散した[230]。今後は、選挙によって選ばれた議員で構成された議会に承認された内閣が行政権を継承し、そしてこの議会が制憲議会としてリビアの新憲法を制定し、1年以内の正式政府発足を目指して[231]統治機構を調えることとなる。
しかし、米国の軍事介入へのブローバックは止まず、同年9月11日には米領事館襲撃事件が発生し、J・クリストファー・スティーブンス大使はじめ関係者4人が死亡するなど、アフガンやイラクの先例と同様未だ国内は内戦以来の不安定な情勢が続いている。 同年9月12日、リビア全体国民会議は、ムスタファー・アブーシャーグールを首相に指名したが期限内に組閣を果たせず、首相不信任案を可決し解任。リビア国民評議会時代の暫定首相であるアブドゥルラヒム・アル・キーブが引き続き暫定政権を同年11月14日まで率いた[232]。10月14日、国民議会は元外交官のアリー・ゼイダーンを首相に選出した[233]。そして、同年11月14日からは、議会の承認によりアリー・ゼイダーンが現在までのリビア首相を務め政権運営に当たっている。
軍事[編集]
核兵器廃絶[編集]
核兵器廃絶を推進する諸国(日本も含む)の政府は、過去1994年~2009年の16年連続、国連総会で核兵器廃絶決議を提案し、賛成多数で毎年採択されている。2008年度は59か国が共同提案国になり、賛成は史上最多の173か国、反対は4か国(アメリカ合衆国、インド、朝鮮民主主義人民共和国、イスラエル)、棄権は6か国(中華人民共和国、イラン、ミャンマー、パキスタン、キューバ、ブータン)である[234][235]。
2013年10月21日に、日本は「米国の核の傘」にある国として初めて、国連総会第一委員会で125カ国連名の「核兵器の人道上の結末に関する共同声明」(ニュージーランド政府発表により「いかなる状況においても核兵器が再び使用されないこと」という表現を含む)に正式に合意し署名した。また、日本はオーストラリア政府発表の17カ国連名の「核兵器の人道上の結末に関する共同声明」(「核兵器を禁止するだけでは廃絶できない」、「人道の議論と安全保障の議論の両方が重要だ」という表現を含む)にも正式に合意し署名した[236]。
包括的核実験禁止条約[編集]
日本は包括的核実験禁止条約[237]に1996年9月に署名、1997年7月に批准している。アメリカ合衆国政府は1996年9月に包括的核実験禁止条約に署名したが、議会上院は軍事的な選択が制限されると認識し、軍事的な選択の多様性を保持する考えで未批准である[238]。
2013年9月27日、第8回CTBT発効促進会議が開催された。これは、発効促進のための会議を開催することを定めた第14条2で、発効要件国44か国すべての批准が同条約の発効要件であり、その達成まで隔年で開催することが規定されているためで、現在は署名国183か国、批准国161か国である。発効要件国の中で、米国は署名済みでも、2013年現在未だ未批准である。他には中国、エジプト、イスラエル、イランは署名済み・未批准の状態であり、インド、パキスタン、北朝鮮は未署名、且つ未批准のままである[239]。
人権[編集]
アメリカ合衆国は米州機構本部国でありながら米州人権条約を批准していない。 2013年11月26日に安倍晋三政権が強行採決した特定秘密保護法は、対米従属政策の一環として、日本の警察国家化、秘密国家化による構造的人権侵害が危惧されている。例えば、日本弁護士連合会(日弁連)の海渡雄一は、特定秘密保護法が国民と議員の知る権利を侵害し、行政による国会の情報統制を可能にし、機密漏洩が未遂も既遂も包括するに止まらず、官僚、議員、ジャーナリストから市民活動参加者までも対象とする現代版治安維持法であると指摘する。2013年現在の日本では、既に米国の圧力で、軍事情報包括保護協定、国家公務員法守秘義務規定、日米刑事特別法、911テロの混乱下で強行採決された自衛隊法改正などの日本側の機密漏洩を厳罰化する法体制は既に成立しているが、どれも法学的な立法事実の証明手続きを経ていないと指摘されている[240]。海渡雄一は、特定秘密保護法の第九条で、特定秘密が外国と共有可能とされている点を問題視し、国民には秘密を厳守させ、外国には秘密を提供するという不公正に関して、その外国とは米国に他ならないと批判する[241]。
国際刑事裁判所条約[編集]
アメリカ合衆国政府は2000年12月に同条約に署名したが、議会上院はアメリカ軍軍人が訴追されることを拒否して未批准である。特にジョージ・H・W・ブッシュ政権は2001年、署名を撤回すると表明した[243]。アメリカ合衆国政府は2001年以後、国際刑事裁判所条約の加盟国に対して、アメリカ合衆国軍の軍人を国際刑事裁判所に対して不訴追にする条約の締結を働きかけ、経済的に貧しい国の中には、アメリカ合衆国からの経済援助を受けて、アメリカ合衆国軍の兵士を国際刑事裁判所に対して不訴追にする条約を締結している国もある。日本は経済的に豊かな諸国、国際協調を重視する諸国とともに、アメリカ合衆国軍の軍人を国際刑事裁判所に対して不訴追にする条約の締結を求めるアメリカ合衆国政府からの働きかけを拒否している。
2013年現在、同条約の締約国は日本を含めた世界122カ国にまで拡大してきている。ただし、日本は2010年の改正ローマ規程の侵略犯罪に関する諸条項(第5条、8条、15条)には米国と共に署名していない[244]。
経済的・社会的・文化的権利に関する国際規約[編集]
日本は経済的・社会的・文化的権利に関する国際規約に、1978年5月に署名、1979年6月に批准した[245]。
2013 年 4 月 29 日から5 月 17 日には、第50会期に関して社会権規約委員会は、日本に対して雇用問題、人権問題、社会保障問題での第三回目の総括所見を提示した。その中で、以下の新たに日本が批准した二点が積極的に評価されている。一つ目は、子どもの売買、児童買春および児童ポルノに関する子どもの権利条約の選択議定書および武力紛争への子どもの関与に関する同選択議定書であり、二つ目は、強制失踪からのすべての者の保護に関する国際条約である。さらに、日本が実施中の四事項(1、アイヌを先住民族として認めたこと。2、中等教育までの授業料無償化プログラムを導入したこと。、「待機児童ゼロ作戦」を実施したこと。2009 年に国籍法を改正し、婚外子が日本人父の国籍を取得できるようにしたこと。)の実施も評価されている。しかし、主要な懸念事項および勧告において、例えば労働問題では、雇用差別の全廃が依然未決の国内問題として厳しく指摘されている[246]。
アメリカ合衆国政府は1977年10月に経済的・社会的・文化的権利に関する国際規約に署名したが、議会上院は国内法が条約に制限されることを拒否して未批准である。
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